SSブログ

権化の仁 [『教行信証』精読(その7)]

(7)権化の仁

 そこから提婆達多や阿闍世、それに韋提希といった人たちは「これすなはち権化の仁、ひとしく苦悩の群萠を救済し」と言われることになります。彼らは釈迦が弥陀の本願を説くという壮大なドラマの登場人物として欠かせない存在であり、みずからは五逆・謗法の悪人(提婆達多、阿闍世)であり、あるいは愚痴きわまりなき凡夫(韋提希)でありながら、釈迦が「苦悩の群萠を救済」する大事業に参加しているということから「権化の仁」とよばれるのです。還相の菩薩が苦悩おおき群萠を救わんがために、仮に悪人や凡夫の姿を借りて現れているということです。
 さらに続けて「世雄の悲、まさしく逆謗闡提をめぐまんとおぼす」と言われます。提婆達多や阿闍世は逆謗闡提(五逆と謗法と闡提)の輩と言わなければなりませんが、彼らも釈迦・弥陀の大悲から漏れることはないということです。どんな悪人であっても、弥陀の本願に遇うことができ、信心・念仏の人となりさえすれば例外なく救われる。これは彼らが先に「権化の仁」と言われたことと不可分です。どんなに極悪非道なふるまいをする人も、還相の菩薩が仮にそのような姿をとって現れているのかもしれないのですから、彼らが如来の大悲から漏れているはずはありません。
 あるとき、講座でヒトラーやポルポトも同じように救われるというお話をしましたところ、皆さん目を丸くしていました。やはり皆さん、こころのどこかでヒトラーやポルポトなんていうとんでもない悪党は地獄行きに決まっているじゃないか、そうでなきゃ腹の虫が収まらないよ、と思っているのではないでしょうか。しかし大乗仏教の極意は「一切衆生悉有仏性(一切の衆生に悉く仏性あり)」であり、それは平たく言いますと、どんなものもみな同じように救われるということです。救いに例外はないということです。ただそのことに気づいているかどうか。気づいている人はすでに救われています。みんな例外なく救われると気づくことが、すでにして救いに他なりません。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。