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縁起と因果 [親鸞最晩年の和讃を読む(その105)]

(3)縁起と因果

 苦諦、集諦ときて、次は滅諦ですが、これは集諦をひっくり返して「煩悩がなければ苦もない」ということです。ところが集諦を「苦の原因は煩悩」としますと、滅諦は「煩悩を滅することにより苦も滅する」となります。まず原因としての煩悩があり、しかる後に結果として苦があるとしますから、原因である煩悩を消し去れば、結果である苦はなくなるということになります。それでいいじゃないかと言われそうですが(それほど縁起と因果は混同されています)、「煩悩のないところに苦はない」と「煩悩をなくせば苦はなくなる」とでは天地の差があります。
 まず、「煩悩のないところに苦はない」では、煩悩と苦は切り離しがたく一体となっていますが、「煩悩をなくせば苦はなくなる」は、煩悩と苦を切り離しています(時間的に前なるものとして煩悩があり、後なるものとして苦が生まれてきます)。さらに、これが決定的ですが、「煩悩をなくせば苦はなくなる」というとき、煩悩をなくすのは誰かという問題があります。煩悩をなくすのはもちろん「わたし」でしかありませんが、さてその「わたし」はどこにいるかということです。
 縁起において、世に存在するものはすべて縦横無尽につながりあっていて、そのつながりから独立して存在するものは何ひとつとしてありませんから、「わたし」もまたその無限のつながりのなかにあります。そして「わたし」と煩悩もまた切り離しがたくつながりあっているのですから、そのなかで「わたし」は煩悩をどのようにしてなくせばいいのでしょう。もし煩悩がなくなるという事態が生まれたとしますと、それは、煩悩と切り離しがたくつながっている「わたし」もなくなったということに他なりません。
 したがって「わたし」が切り離しがたくつながっている煩悩をなくそうとしますと、そのつながりの外に出る必要があります。少なくとも「わたし」だけは縦横無尽につながりあっている存在している世界からひとり離れて、その世界を見ているという構図となり、これは縁起そのものを否定することです。かくして縁起と因果とはまったく異なることが明らかとなりました。

タグ:親鸞を読む
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