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一々の光明は、あまねく十方世界を照らし [『観無量寿経』精読(その42)]

(2)一々の光明は、あまねく十方世界を照らし

 無量寿仏の「身相と光明」を観ずべしと述べられますが、その身相については、もうわれらの心にとっておよびもつかないものであることにため息をつくしかありません。身体の色は「百千万億の夜摩天の閻浮檀金色のごとし」であり、その高さは「六十万億那由他恒河沙由旬」で、その眉間の白毫は「五つの須弥山のごとし」、さらにその眼は「四大海水のごとし」というように言われても、ただことばが中空で踊っているだけで、具体的なイメージを結ぶことはありません。
 何度も繰り返してきましたように、「ミタ(有量)のいのち」が「アミタ(無量)のいのち」に近寄るすべはないのです。しかし光明はどうでしょう。これもこちらから観ようとしますと、とても眩くて目がつぶれてしまいますが、むこうから照らされるということでしたら、実感をもってイメージできます。これまでの「観る」と「聞こえる」の対に、「観る」と「照らされる」というコントラストを加えなければなりません。「観る」は「こちらから」で、「照らされる」は「むこうから」であり、あるいは、「観る」は「わたしから」で、「照らされる」は「ほとけから」です。
 ここであまりに有名な一節が出てきます、「光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず(光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨)」と。
 無量寿仏には八万四千の相があり、その一々の相には八万四千の好があり、その一々の好に八万四千の光明があって、その光明はあらゆる世界を隈なく照らし、念仏の衆生を包摂して漏らすことはないというのです(ここで「念仏」というのは、これまでの流れからしまして、仏や浄土を心に観想するということであり、後で出てくる称名念仏のことではありません)。仏はこちらからどれほどアクセスしようとしても、原理的にできる相談ではありません。しかしむこうからやってきてくださり(タターガタ、如から来るのです)、われらをそのまま摂取してくださるということ、ここに浄土の教えのもっとも重要なメッセージがあります。

タグ:親鸞を読む
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