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10月14日(木) [矛盾について(その78)]

 救いをこちらから「求める」ということは、救いはどこか向こうにあり、それを手に入れようとすることです。そのためにはどうすればいいかを考え、立てた方針に基づいて着実に目標を目指すことです。このイメージはごく自然なものとしてぼくらに馴染んでいますが、そこから当然のこととして、こちらにはまだ目標に到達していない人たち、向こうにはもう到達した人たちがいることになります。まだ救われていない人たちと、もう救われた人たちとに分かれることになります。
 しかし、救いは向こうから「与えられる」としますと、気がついたときには「みんなが救われている」のです。ある人たちはもう救われているが、ある人たちはまだ救われていないということはありません。もし「みんなが救われている」のではなく、誰かが救われていないとしますと、救いが向こうから「与えられている」ことにはなりません。
 具体的に考えてみましょう。ぼくが「救われた」と感じたとします。ところがそのとき、ぼくの妻が救われていないとしたらどうでしょう。それは救いが「与えられた」ことになるのでしょうか。先ほどの繰り返しになりますが、ぼくが救いを「求める」としますと、そして首尾よくそれを手に入れたとしますと、ぼくは救われたのに妻は救われていないという事態はありえます。でも、あるときふと「もうすでに救われている」と感じたとしますと、ぼくだけが救われ、隣にいる妻が救われていないという事態はありえません。妻が救われていないということは、取りも直さず、ぼくも救われていないということです。大乗のエッセンスは「みんなが救われてはじめて自分も救われる」という点にあることはよく知られていますが、それは、救いは向こうから「与えられる」からです。
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