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5月2日(月) [矛盾について(その273)]

 さて、「感じる」モードにいたときの経験を誰かに語らなければならないとき、どうすればいいか。
 語るためにはことばを使わなければなりませんが、ことばは「見る」モードに合うように作られています。主語があり述語があります。名詞(実体)と形容詞(属性)の区別があります。それを使って「感じる」モードの経験をどう表せばいいのでしょうか。よく「ことばではとても言い表せない」とか「名状しがたい経験」と言ったりしますが、無理もないと言わなければなりません。
 源左は名状しがたい経験をどう語ったか、もう一度振り返ってみましょう。
源左は自分が背負ってきた草の束が重くて耐えられなくなり、それを牛の背に預けたのでした。そうしたら急に「らくになってのう」。ここまでは「見る」モードですから、彼の語り口もごく自然ですが、問題はその直後です。そのとき「ふいつと」聞こえてのう、と源左は言います。もちろん「源左たすくる」の声です。
 彼はそうとは明言していませんが、この声は「仏」の声に違いないと感じたのです。と言いますのも、「家にもどるなり、草も鎌もなげすてゝ御隠居さん(隠居した住職)のところに飛んで行って、御領解を話したら“源左そこだ”といわれましてなあ。あゝこゝだらあやあと思って、世界が広いやあになってように安気になりましたいな。不思議なことでござんすがやあ」と語っているのです。

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