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8月9日(火) [矛盾について(その371)]

 自分を棚上げにしないということでした。
 割り込みについても同じです。誰が悪いかと言えば、割り込みをする人が悪いに決まっています。だから、割り込みをするような人には強く抗議しなければなりませんが、しかし同時に、ぼくの中にも割り込みをしたいという気持ちがあることを忘れてはいけないと思うのです。実際に割り込みをするかしないかは天地の差です。でも、割り込みをしたいと思っていることで言えば、割り込みをする人もしないぼくも変わりはないということを頭の片隅においておかなければと思うのです。
 「あいすみません」という思いがあるかどうかということです。
 この思いがありますと、「東電の社長は土下座しろ」、あるいは「割り込みをするようなヤツは人間じゃない」とは言えなくなるのです。ものごとをすっきりと割り切れなくなるのです。金子大栄さんの『親鸞の世界』という本を読んでおりましたら、おもしろいことが書いてありました。ちょっと紹介します。「近ごろつくづく考えることは、煩悩というものは凡夫の道徳ではないかしらということです。煩悩具足、罪悪深重とあるのだから、それは悪徳にちがいない。しかし、煩い悩むということは、欲のこころがあり、腹の立つこころがあるからであるが、その欲のこころをなくしたらば、腹立つこころをなくしたならば、何が残るか」。
 これをぼく流に解説しますと、ぼくらはあれが欲しい、これが欲しいと貪り、思うようにいかないと腹を立てるものですが、でも貪り、腹を立てながら、同時にそれを煩い悩んでいます。貪り、怒りながら、同時に「あいすみません」と思っています。これを金子大栄さんは「煩悩というものは凡夫の道徳」と言っているのです。煩悩は悪徳だけれど、同時に道徳だと。悪いことをしながら、これは悪いことをしてしまいました、申し訳ありませんと思う。そう思ったからといって悪徳が止むわけではありません、またぞろ貪り、怒る。そしてまた「あいすみません」と思う。これがぼくら凡夫の道徳だと言うのです。

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