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8月10日(水) [矛盾について(その372)]

 煩悩は悪ですが、同時に懺悔(「あいすみません」)でもあるーどうも、すっきりしません。悪なのか悪ではないのか、一向に割り切れないのです。でも、それが真実ではないのでしょうか。ぼくらの感情や意思は、すっきりと割り切れるものではなくて、AなのかAではないのかがはっきりしないのではないでしょうか。もっと言えば、それをはっきりさせてしまうと真実ではなくなってしまうのではないか。
 金子みすずの「大漁」を思い出します。「朝焼け小焼けだ 大漁だ 大羽鰯の大漁だ 浜は祭りの ようだけど 海のなかでは 何万の 鰯のとむらい するだろう」。浜は大漁で喜びにあふれています。でも海のなかはとむらいの悲しみに包まれている。浜の喜びと海の悲しみは隣り合わせになっているのです。
 喜びの隣には悲しみがあり、悲しみの裏には喜びがあります。それじゃすっきり喜べないし、すっきり悲しめないからと、どちらか一方だけ取り出して、もう一方は捨ててしまいますと、すべてが捨てられてしまうのではないでしょうか。悲しみが全くない喜びとは何でしょう。陰のない光だけの世界では、光を光と感じることができないように、喜び一色の世界では、喜びを喜びと感じられなくなるに違いありません。また喜びが全くない悲しみとは何でしょう。漆黒の世界では闇を闇と感じられないように、悲しみしかない世界では、悲しみを悲しみと感じなくなるでしょう。
 悲しみがあるから喜びがあり、喜びがあるから悲しみがあるのです。

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