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7月18日(水) [『歎異抄』を読む(その64)]

 娑婆で慈悲の働きをするのは浄土へ往かせてもらってから、つまりいのち終えて後というのではあまりに遅すぎるじゃないかという思い。
 その時ぼくが考えていたのは、「ぼく」が往き、そして「ぼく」が還るということでした。往相も還相も「ぼく」のことだと。「ぼく」が往き、「ぼく」が還るとしますと、いま目の前で苦しんでいる人を助けることができず、そして還ってきた時には、もう手遅れです。
 しかし、往くのは確かに「ぼく」でも、還ってくるのは「ぼく」でしょうか。どうやら、ここのところに大きな思い違いがあったようです。往相は「ぼく」でも、還相はもはや「ぼく」ではありません、仏です。ぼくら衆生には往相はあっても還相はないのです。還相は仏にしかありません。
 ここから大事なことが明らかになってきます。
 往くのも還るのも「ぼく」でしたら、まず往ってから還るしかありませんが、往くのは「ぼく」でも、還るのは「仏」でしたら、往くことと還ることが時間的に離れている訳ではありません。「ぼく」の往相はぼくから見れば往相でしかありませんが、それを「仏」から見ればそのまま仏の還相なのです。
 ぼくが娑婆世界を生きていることは、ぼくから見ればぼくが浄土へ往かせていただくことですが、仏から見れば仏が娑婆世界へ還ることに他ならないのです。ぼくの往相は、そのまま仏の還相。

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