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十方の有縁にきかしめん [『浄土和讃』を読む(その98)]

(15)十方の有縁にきかしめん

 さていま問題となっているのは往生という願いです。いつの日か浄土へ往くことができるという願い。いますぐ往きたいのはやまやまなれども、煩悩まみれの身の上ではそれはかないません。でもいつか往くことができるという願いです。こんな願いを持ち続けることができるのは、「帰っておいで」と願われているからに他なりません。やはり願われているから願うことができるのです。そしてここで不思議なことが起ります。往生を願うのはそれがいまだかなっていないからですが、往生が願われていることに気づきますと、それはもうすでにかなっていると思えるのです。「これから」がそのまま「ただいま」であるというのはそういうことです。
 「讃阿弥陀仏偈和讃」の最後の一首です。

 「仏慧(ぶって)功徳をほめしめて 十方の有縁にきかしめん 信心すでにえんひとは つねに仏恩(ぶっとん)報ずべし」(第50首)。
 「弥陀の本願ほめあげて、有縁の人にきかせては、すでに信心えた恩を、いつも忘れず報ずべし」。

 「これから」がそのまま「ただいま」であることに気づきますと、それを他の人に聞いてもらいたくなります。ぼくらはいいものを見たり聞いたりしますと、それを自分の中にとどめておくことができず、誰かれなく触れ回りたくなるものです。空気が澄みきった日など、岡崎の街からはるか御岳を望み見ることができますが、そんなとき、「ほら、御岳が見えますよ」と頼まれもしないのに言いふらす。その人がそのことに何の価値も見いだしていなかろうがお構いなしです。なぜか。嬉しいからです。この嬉しさを人さまにもお裾分けしたいからです。
 「つねに仏恩報ずべし」の「べし」は、つい「そうしなければならない」と義務や命令の意味に取りがちですが、ここでは「信心すでにえんひとは」きっと仏恩を報ずるに違いないという「当然」の意味でしょう。「そうしなければならない」も何も、もうそうせざるを得ないのですから、

               (第5回 完)

タグ:親鸞を読む
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