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大経和讃 [『浄土和讃』を読む(その99)]

          第6回 三部経和讃(その1)

(1)大経和讃

 讃阿弥陀仏偈和讃48首に続くのが三部経和讃36首です。その内訳は、①「大経意(だいきょうのこころ)」として22首、②「観経意(かんきょうのこころ)」として9首、そして③「弥陀経意(みだきょうのこころ)」として5首となっています。今回は①の大経和讃を読んでいきます。『無量寿経』に説かれていることを、その流れに沿って、勘どころを押さえながらうたっています。
 最初の4首は『無量寿経』の序分(序論、経は普通、序分・正宗分-本論・流通分-結論に分けられます)に相当し、釈迦が弥陀の本願について語りだすに至った経緯についてうたっています。まずはその第1首。

 「尊者阿難座よりたち 世尊の威光を瞻仰(せんごう、仰ぎ見る)し 生希有心(しょうけうしん、何と希有なことか)とおどろかし 未曾見(みぞうけん、いまだ見たことがない)とぞあやしみし」(第51首)。
 「あるとき阿難座よりたち、釈迦のお顔のきよらかさ、なんと不思議とおどろいて、見たことないと仰ぎみる」。

 『無量寿経』はこんなことばで始まります、「われ、かくのごとく聞けり。一時(あるとき)、仏、王舎城の耆闍崛山(ぎしゃくっせん、霊鷲山のこと)の中に住したまひ、大比丘衆、万二千人とともなりき」と。王舎城とは当時インド最大の国、マガダ国の都があったところで、その郊外の耆闍崛山に釈迦が弟子たちと住んでいたようです。そしてここで『無量寿経』や『法華経』が説かれたとされます。
 さて釈迦がこの経を説く相手(対告衆、たいごうしゅ)となったのが阿難(アーナンダ)です。釈迦の従兄弟で、釈迦入滅まで常随して説法を聞き、十大弟子のなかで多聞第一とされます。あるとき釈迦の「諸根悦予し(しょこんえつよ、全身が悦びにあふれ)、姿色清浄にして(ししきしょうじょう、お姿が清らかで)、光顔魏魏とましませる(こうげんぎぎ、お顔が気高く輝く)」様子に驚いた阿難が、「すなわち座より起ち」、こう言うのです、「いまだかつて殊勝なること今のごとくましますをみたてまつらず」と。

タグ:親鸞を読む
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