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書くと語る [『歎異抄』を聞く(その6)]

(6)書くと語る

 親鸞には数多くの著作があります。その代表は言うまでもなく『教行信証』(正式名称は『顕浄土真実教行証文類』)ですが、そうした漢文で書かれた難解な書物の他に、和文の親しみやすいもの(例えば『唯信鈔文意』など)もあり、さらには書簡や和讃もあります。そのように多彩ですが、いずれも親鸞が筆をそめたものです。それらは有難いことに今日まで残されていて、ぼくらも読むことができるのですが、親鸞が弟子たちに日ごろ語っていたことばは残念なことにその場で消えてしまいます。それはいかんともしがたいことですが、この『歎異抄』だけは親鸞の語り口が唯円によって記録され、ぼくらのもとに届けられているのです。これは何とも有難いことであると言わなければなりません。
 書くことと語ることを比べてみましょう。どちらも自分の思いをことばで表すことでは同じですが、紙を前にして文章を考えるのと、聴衆を前にことばが口をついて出ていくのとではおのずから違いがあります。文章を書くときは、後々まで残るものであることが気になりますし、自分との孤独な対話ですから、どうしても意識過剰になります。一方、語るときは、前もって原稿を用意している場合でも、目の前にいる聴衆との交流のなかでふと思いついたことを言ってみたりして即興性が強くなります。音楽の場合でも、スタジオで録音するときと、コンサートホールで聴衆に聞いてもらうときとでは、その自由度が異なってくるのではないでしょうか。
 そして『歎異抄』が他の書物とめざましく違うのは、しばしば「親鸞は」とか「親鸞にをきては」と出てくることです。「親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて」(2章)、「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらばず」(5章)、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」(9章)、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(後序)など。これは語りにおいてはどうしても親鸞その人が一人称単数として出てくるということで、そこに他では味わえない魅力があるということです。

タグ:親鸞を読む
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