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ことばは自力のバージョン [『観無量寿経』精読(その70)]

(3)ことばは自力のバージョン

 結局は「ことば」の問題の行きつきます。他力をことばで表現することの絶望的な難しさということです。そもそもことばというものはわれらがこの世を自力で生き抜いていく上で不可欠の道具としてつくられてきました。そしてわれら人間を地球上の覇者として君臨させることになったのは間違いなくことばの力でしょう。つまりことばというものは自力のバージョンになっているのですが、そのようなことばをもちいて他力をどうあらわせばいいのか、その困難さに問題の本質があります。
 他力を言うとき、こんな言い方がされます、往生という果はもちろんのこと、その因としての信心・念仏も弥陀の本願力によると。われらが信心し、われらが念仏することにより、往生することができるのではなく、信心も念仏も本願力のなせるわざであり、そのおのずからなる果として往生があるということです。さて、このように聞いた時、われらのこころはざわつかないでしょうか、それではわれらはもはやただの木偶の坊ではないかと。本願を「信じる」とか、名号を「称える」という動詞をつかうとき、それは主語としての「わたし」が本願を「信じ」、名号を「称える」のであって、それ以外の誰かが「信じ」たり「称え」たりしているとは考えられません。ところが信心も念仏も本願力のなせるわざと言う。
 他力の信心とか他力の念仏という言い方は、ことばそのものに無理があると言わざるをえません。
 大急ぎで言わなければなりませんが、「他力の信心」、「他力の念仏」が真実ではないというのではありません。浄土真宗の教えのエッセンスがここにあるのは確かです。ただ、この言い回しには、ことばとして無理があり、本願を「信じる」と言い、名号を「称える」と言うときには、それをするのは主語としての「わたし」であるという大前提がありますから、それを他力と言われるとこころがざわつくのです。そこで考えたいのが、同じことばを自分自身が語る場合と、他の人が語るのを聞く場合の違いです。「わたしが本願を信じ念仏すれば往生できる」と自分が言う時と、他の人が「あなたが本願を信じ念仏すれば往生できる」と語るのを聞く時とでどう違うかということです。

タグ:親鸞を読む
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