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もうすでに心は浄土に [「『証巻』を読む」その108]

(5)もうすでに心は浄土に

天親はここで五功徳門の名を上げるだけで、それぞれについての詳しい説明はこの先でするのですが、曇鸞は五功徳門の名の由来を解説する形で、その意味を明らかにしています。まず入の四門について、最初の近門(ごんもん)は「浄土に至る」ことであり、それは「大乗正定聚に入る」ことに他ならず、「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏のさとり)に近づく」ことであるから近門というのだと言います。次の大会衆門というのは「如来の大会衆の数に入る」ことであり、さらに宅門は「修行安心の宅に至る」こと、そして屋門は「修行所居の屋宇に至る」ことであるとします。このように浄土に入り、「漸次(ぜんじ)に」阿耨多羅三藐三菩提に向かって進んでいくプロセスとして描かれています。そして出の第五門については、「修行成就しをはりぬれば、まさに教化地に至る」とされ、それは「菩薩の自娯楽の地」であるから園林遊戯地門(おんりんゆげじもん)とよばれると言われます。

さてここで注目したいのは近門で、これはもうすでに浄土に至りつき、その上で「仏のさとりに近づくこと」であるとされていることです。

近門は「浄土に近づくこと」ではありません。往相ということばを、これから「浄土へ往生する相」と受け取り、その第一門である近門は「浄土に近づくこと」に違いないと思ってしまいがちですが、天親・曇鸞にとって入の相・往相とは、もうすでに「浄土に至る」ことであり、浄土において仏のさとりへと近づいていく相であることが了解できます。それに関連して思い起こされるのが善巧摂化(ぜんぎょうせっけ)の章の最後のところで「かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり」と述べられていたことです(第9回の10参照)。阿弥陀仏の浄土に往生することは、仏になるための道路であり、そのためのこの上ない方便であると言われていました。しばしば往生はすなわち成仏であるとされますが、天親・曇鸞にとって、往生浄土は成仏に至るための道程であるということです。


タグ:親鸞を読む
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