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往相のはじまりは還相のはじまり [「『証巻』を読む」その115]

(2)往相のはじまりは還相のはじまり

さて最初に考えておかなければならないのは、還相回向が第五門とされていることです。第一門から第四門までが往相回向で、第五門が還相回向とされますと、まず往相があり、その後に還相がくるというように理解されますが、それでいいのかということです。この問題についてはすでに取り上げ、往相が終わってから還相がはじまるのではないことを確認しました(第4回の3参照)。自利(みずからがたすかること)と利他(他の衆生をたすけること)は切り離せず、したがって往相はそのまま還相でなければならないことを見てきました。このように往相と還相はコインの表と裏の関係にありますが、ただ、それについて語ろうとしますとどちらかを先にし、もう一方が後にならざるをえないということです。

先回見ましたように、入の第一門である近門とは「浄土に至る」ことであり、「大乗正定聚に入る」ことであるとされていました。すなわち本願に遇い、信心を得ることができたそのときにすでに浄土に至り、正定聚に入るのです(第十八願成就文に「即得往生、住不退転(すなはち往生を得、不退転に住す)」とあるのはそのことです)。大事なことはそれが還相のはじまりでもあるということで、近門は往相のはじまりですが、同時にそのとき還相もはじまるのです。近門から大会衆門、宅門、屋門と往相が深まるとともに、還相も深まっていくと見なければなりません。そして園林遊戯地門に至って還相はそのもっとも円熟した姿を示すということができます。「応化身(おうげしん)を示して」とか「神通に遊戯(ゆげ)し」といったことばは、還相の深まりの極致を表現しています。

そう言えば、親鸞は『論註』から長い引用をはじめるにあたり、未証浄心の菩薩と平等法身の菩薩との関係についての文を最初にもってきました(第5回の4)。「すなはちかの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を得証す」という文です。未証浄心の菩薩とは五功徳門でいいますと、近門に入ったばかりの菩薩ですが、「種々に示現し、種々に一切衆生を教化し度脱して、つねに仏事をなす」ことのできる平等法身の菩薩(これが園林遊戯地門の菩薩でしょう)と「畢竟じて」同じであるということです。近門に入ったばかりの菩薩も、還相のはたらきをすることにおいては園林遊戯地門の菩薩と本質的に何も変わらないというのです。


タグ:親鸞を読む
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