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第12回、本文2 [「『証巻』を読む」その118]

(5)第12回、本文2

「証巻」最後の締めのことばです。

しかれば、大聖(だいしょう)(釈尊)の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。還相の利益は利他の正意を(あらわ)すなり。ここをもつて論主(天親)は広大無礙の一心を宣布(せんぷ)して、あまねく(ぞう)(ぜん)堪忍(かんにん)(雑染はさまざまな煩悩、堪忍は娑婆)の群萠(ぐんもう)(かい)()す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の(じん)()弘宣(ぐせん)したまへり。仰いで奉持(ぶじ)すべし、ことに頂戴(ちょうだい)すべしと。

最初の文は「証巻」前半のまとめで、「大聖の真言」とは巻のはじめに上げられた『大経』と『如来会』の文を指しています。すなわち本願を信じ念仏を申して大涅槃を証することは本願力の回向によるということです。第二の文は「証巻」後半の還相回向のまとめで、往相と同じく還相もまた如来の利他すなわち本願力のたまものであることを述べています。そしてすべては本願力によることを明かしてくれたのが、天親の「一心」すなわち「如来回向の信心」の教えであり、また曇鸞の「大悲往還の回向」の教えであると述べています。さらに最後の最後に曇鸞の「他利利他の深義」を指摘して巻を閉じるのですが、このことについては何の説明もありません。

『論註』下巻からの長い引用は先の本文1までで、その後の最末尾の部分はここでは引かれていません(すでに「行巻」で引かれています)。実はその部分が『論註』のクライマックスとも言うべき箇所になります。そこで曇鸞は『浄土論』の終わりの文、「菩薩はかくのごとく五念門の行を修して自利利他す。速やかに阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏のさとり)を成就することを得るがゆゑなり」を注釈していて、その中に「他利利他の深義」が出てくるのです。曇鸞はまず問いを出します、「なんの因縁ありてか、〈速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得〉といへる」と。菩薩が五念門の行を修めたからといって、どうして速やかに仏のさとりを得ることができると言えるのか、ということです。


タグ:親鸞を読む
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