SSブログ

第12回、本文1 [「『証巻』を読む」その114]

第12回 本願力の回向

(1)  第12回、本文1

五功徳門の最後、出の第五門についてです。

〈出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化(おうげ)(しん)を示して、生死の園、煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯(ゆげ)し、教化地(きょうけじ)に至る。本願力の回向をもつてのゆゑに。これを出第五門と名づく〉(浄土論)とのたまへり。〈応化身を示す〉といふは、『法華経』の普門(ふもん)(「観世音菩薩普門品(観音菩薩が衆生を救うためにさまざまな姿を取ることを説く章)」)示現(じげん)の類のごときなり。〈遊戯〉に二つの義あり。一つには自在の義。菩薩衆生を度す。たとへば獅子の鹿を()つに、所為(しょい)(はばか)らざるがごときは(獅子が鹿をとらえるのがいともたやすいことは)、遊戯するがごとし。二つには()無所度(むしょど)(衆生を済度しているという思いがないことの義なり。菩薩衆生を観ずるに、畢竟(ひっきょう)じて所有(あらゆるところ)なし(衆生を実体として存在するとは見ない)。無量の衆生を度すといへども、実に一衆生として滅度を得るものなし(さとりを得させたという思いがない)。衆生を度すと示すこと遊戯するがごとし。〈本願力〉といふは、大菩薩(八地以上の菩薩)(ほっ)(しん)のなかにおいて、つねに三昧(ざんまい)にましまして、種々の身、種々の神通(じんずう)、種々の説法を現ずることを示すこと、みな本願力より起るをもつてなり。これを教化地の第五の功徳の相と名づくとのたまへり」と。以上抄出

いよいよ「証巻」の最終段に至りました。これまでの歩みをふり返っておきますと「証巻」の前半において、浄土真宗の真実の証は第十一願の「必至滅度(かならず滅度に至る)」にあり、それは「正定聚に住す」ことに他ならないことが述べられ、最後に「それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし」と締めくくられました(第3回まで)。

そして後半に入り、今度は還相回向について、もっぱら『論註』を引くかたちで説かれてきました。そのはじめに、ここに引かれる『浄土論』の文、「出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩の林のなかに回入(えにゅう)して、神通に遊戯し、教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑに。これを出第五門と名づく」が上げられていました(第4回)。ここでその文にもう一度戻り、還相回向とは何かを『論註』に語らせようということです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問