SSブログ

取り次ぎ [「『おふみ』を読む」その11]

(11)取り次ぎ

ことば尻をとらえて難癖をつけているのではないか、と言われるかもしれません。仏光寺の場合は、名帳・絵系図により、坊主が門徒の救い(往生)を与奪する権限を握るのだから、代官として「如来の教法」を取り次ぐだけという蓮如とは根本的に異なると。それはまったくその通りで、蓮如自身がそういう観点から仏光寺的な「わが弟子」を批判しているわけです。ただ、「如来の教法」を取り次ぐだけの代官も、まかりまちがえば救いを与奪する権限をもつことになる可能性を排除できないのではないかと危惧するのです。

そもそも救いに取り次ぎが必要でしょうか。もう一度ルターの宗教改革を参照しますと、彼は神と人間との間を取り次ぐ聖職者の存在を否定し、「万人司祭説」を唱えました。信仰というのは、一人ひとりが聖書だけにもとづいて、直接神と結びつくものだと言うのです。その間に介在するものは何もない、と。親鸞の「非僧非俗」も同じ意味あいではないでしょうか。

「つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あれば、はなるる」という言い回しにも親鸞らしさがよく出ています。「来る者拒まず、去る者追わず」です。

すぐ前のところで、親鸞の場合は「自信」が主で、「教人信」はそれにおのずから伴うものにすぎないと言いました。一方、蓮如は「教人信」に主眼がおかれて、「自信」はそのための当然の前提にすぎません。さて蓮如のいう代官ともなりますと、「来る者拒まず、去る者追わず」とはいかなくなるのではないでしょうか。どうしても「ねばならない」が顔を出し、去る者は追いかけてでも「おしえきかしむる」仕儀となるのではないか。親鸞はといいますと、「詮ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」と言います(『歎異抄』第2章)。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0)