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至心に回向したまへり [「『証巻』を読む」その112]

(9)至心に回向したまへり

普通の読みでは、われらが至心に回向して(まことの心で修行して)、浄土に往生したいと願えば、そのとき往生することができるという意味になりますが、しかし、われらがどれほど至心に願い、至心に努力したとしても、往生したいと願ったそのときに往生できるなどとどうして言えるのかという問いがおのずから浮かび上がってくるでしょう。思い出されるのが法然のことです。彼は「われらごときはすでに戒定恵の三学の器にあらず。この三学のほかにわが心に相応する法門ありや、わが身に堪たる修行やあると、よろづの智者をもとめ、諸の学者にとふらひしに、をしふる人もなく、しめす輩もなし。しかる間なげきなげき経蔵にいり、かなしみかなしみ聖教にむかひて、手自らひらきみし」(『法然上人絵伝』)ときに出あったのが善導の『観経疏』でした。彼はそれを二遍読みますが、なかなか心に落ちず、三度目にある箇所にきてはっと目が開かれたと言われます。

それが「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく。かの仏願に順ずるがゆゑに」という一節です。法然の心のうちにわだかまっていたのは、「一心に弥陀の名号を専念」するとしても、それで往生できるとどうして言えるのだろうという疑念ではなかったでしょうか。一心に願い、一心に名号を称えれば往生できると説かれるが、その根拠はどこにあるのかという問いです。それに答えを与えてくれたのが「かの仏願に順ずるがゆゑに」という一句でした。われらがどれほど願い、どれほど力を尽くすとしても、それで願いがかなうという保証はどこにもありませんが、しかし、それが仏の願いであったとしたらどうでしょう。もうすでに仏が願ってくださっているのであれば、われらの願いがかなうのは何の不思議もありません。それが「かの仏願に順ずるがゆゑに」ということです。

親鸞が「至心回向」を「至心に回向したまへり」と読まざるを得なかったのも同じ消息です。われらがどれほど「至心に回向する」にしても、それで願いがかなう保証はどこにもありませんが、如来が「至心に回向したまへ」るとしますと、「かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得」ることはストンと肚に落ちます。


タグ:親鸞を読む
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