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五念門と五功徳門 [「『証巻』を読む」その113]

(10)五念門と五功徳門

さて前に表にして整理しましたように(4)、五念門と五功徳門は一対一に対応しています。ここから五念門という行によって五功徳門という証がえられると理解されることになりますが、さてここは細心の注意が必要です。五念門という行が因となって五功徳門という証が果として生じると言われますと、まず五念門の行をなし、しかる後に五功徳門の証を得るというように、そこに時間的な前後関係を思い浮かべますが、そうしますと「行と証」は「手段と目的」の関係になっています。しかし例えば入第一門の「礼拝門と近門」は「手段と目的」の関係ではありません。どうして仏を礼拝するという手段によって浄土に往生するという結果が得られるのか、まったく理解できません。

「礼拝する」ことによって「往生する」ことができるのではありません。まず「礼拝する」ことがあって、のちに「往生する」のではなく、この二つは一つです。

もういちど本文に戻りますと、通常の読みでは、「阿弥陀仏を礼拝してかの国に生ぜんとなすをもつてのゆゑに、安楽世界に生ずることを得」となるところを、親鸞は「阿弥陀仏を礼拝してかの国に生ぜしめんがためにするをもつてのゆゑに、安楽世界に生ずることを得しむ」と読んだのでした。それは通常の読みでは、われらが「阿弥陀仏を礼拝してかの国に生ぜんとなす」ことが手段となり、その結果として「安楽世界に生ずることを得」ると理解されてしまうからです。そこで親鸞は如来がわれらを往生させようという大いなる願いをもって、われらが礼拝するようにうながし、そうしてわれらを安楽世界に生まれさせようとはからっていると読むのです。

としますと、われらが如来を礼拝して往生したいと願うのは、もうすでに如来によってわれらの往生が願われていることに気づくからであることになります。「ああ、もう往生は願われている」という慶びに包まれて如来を礼拝するのであり、そのときもうすでに願いはかなえられているのです。

(第11回 完)


タグ:親鸞を読む
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