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みな本願力より [「『証巻』を読む」その120]

(7)みな本願力より

先の本文1で、「みな本願力より起る」ことを説明するのに、「たとへば阿修羅の琴(きん)の鼓(こ)するものなしといへども、しかも音曲(おんぎょく)自然なるがごとし」という印象的な譬えがつかわれていました。それは、還相の菩薩に衆生を済度しようなどという意識はないのに、「自然に」済度のはたらきがされるということであり、それが「みな本願力より起る」ということです。他利と利他の違いは外からは見えません。周りの人には還相の菩薩が「みづから」衆生利益のはたらきをしているように見えても、本人としてはそんな思いは露ほどもありません。にもかかわらず「おのずから」衆生利益のはたらきが起こる。それが「阿修羅の琴の鼓するものなしといへども、しかも音曲自然なるがごとし」ということです。

ぼくは『歎異抄』の第4章がなかなか了解できませんでした。「今生に、いかにいとほし不便(ふびん)とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべき」ということばが咽喉の奥に引っかかったまま、ストンと腹に落ちてくれません。これでは他の人のためにはたらくことは今生ではできず、来生を期すしかないということになり、これまで『論註』から読み取ってきたもっとも大事な教えに反するのではないかと思えます。その肝心の教えといいますのは、往相(自利)がそのまま還相(利他)であるということ、曇鸞のことばでは「願作仏心これすなはち度衆生心」ということです。

では『歎異抄』のことばは何を言わんとしているのでしょう。ことは「わたしのはからい」と「ほとけのはからい」の関係にかかわります。

「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であるということ、これが他力思想の原点ですが、それは取りも直さず「わたしのはからい」はすべて「ほとけのはからい」の掌の上ということです。しかし「ほとけのいのち」の気づきがありませんと、もちろん「ほとけのはからい」もなく、ひたすら「わたしのはからい」しかありません。ですから「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」ことも、みな「わたしのはからい」にかかっており、その結果として「おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし」ということになります。「わたしのはからい」などたかが知れているからです。


タグ:親鸞を読む
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