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上品中生 [『観無量寿経』精読(その68)]

             第6回 臨終の来迎

(1)上品中生

 上品上生の次は上品中生です。

 上品中生といふは、かならずしも方等経典(ほうどうきょうてん、大乗経典)を受持し読誦せざれども、よく義趣を解(さと)り、第一義(第一義諦、一切空のこと)において心驚動せず。深く因果を信じて大乗を謗らず。この功徳をもつて回向して極楽国に生ぜんと願求す。この行を行ずるもの、命終らんとする時、阿弥陀仏は、観世音・大勢至・無量の大衆とともに眷属に囲繞せられて、紫金の台(うてな)を持たしめて、行者の前に至りたまひ、讃めてのたまはく、法子(仏弟子のこと)、なんぢ大乗を行じ第一義を解す。このゆゑに、われいま来りてなんぢを迎接(こうしょう)すと。千の化仏とともに一時に手を授けたまふ。行者みづから見れば紫金の台に坐せり。合掌叉手(しゃしゅ、両手の指をくみあわせる)して諸仏を讃歎したてまつる。一念のあひだのごとくに、すなはちかの国の七宝の池のなかに生ず。この紫金の台は大宝華のごとし。宿(一夜)を経てすなはち開く。行者の身は紫磨金色になれり。足の下にまた七宝の蓮華あり。仏および菩薩、倶時(くじ、同時)に光明を放ちて行者の身を照らしたまふに、目すなはち開けてあきらかなり。前(さき)の宿習(前世で習い身につけたもの)によりて、あまねくもろもろの声を聞くに、もつぱら甚深の第一義諦を説く。すなはち金台より下りて、仏を礼し合掌して世尊を讃歎したてまつる。七日を経て、時に応じてすなはち阿耨多羅三藐三菩提において不退転を得。時に応じてすなはちよく飛行(ひぎょう)して、あまねく十方に至り諸仏に歴事(りゃくじ)す。諸仏の所(みもと)にしてもろもろの三昧を修す。一小劫を経て無生忍を得、現前に授記せらる。これを上品中生のものと名づく。

 上品上生のものと比べて、方等経典を受持し読誦するかしないかの違いがありますが、大乗の教えのエッセンスである第一義空をさとり、深く因果を信じて浄土往生を願うのが上品中生のものだと言われます。ですから「命終らんとする時、阿弥陀仏は、観世音・大勢至・無量の大衆とともに眷属に囲繞せられて、紫金の台を持たしめて、行者の前に至りたま」うことまでは同じですが、功徳の差は往生のかたちの違いとして現れ、蓮華のなかに包まれてかの国に生まれ、その華は「宿を経てすなはち開」きます。また「七日を経て、時に応じてすなはち阿耨多羅三藐三菩提において不退転を得」ることになります。

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信心の定まるとき往生また定まるなり [『観無量寿経』精読(その67)]

(12)信心の定まるとき往生また定まるなり

 「信心の定まるとき往生また定まるなり」ということばを、信心を得たときに将来の往生が約束されるのであり、それが摂取不捨、正定聚の意味であると理解するのです。往生が定まるとは、往生することが決定されるということであり、往生そのものは先のことだというのです。さてしかし、理屈を言うようですが、「往生が定まる」を「往生することが決定することであり、ただちに往生することではない」と理解するならば、「信心が定まる」も同様に「信心することが決定することであり、ただちに信心することではない」と理解しなければなりませんが、ここで「信心が定まる」とあるのは、この先信心するということではなく、ただちに信心するのであることは言うまでもありません。
 どうしても正定聚と往生は別でなければならないと固執する人は、往生をゴールという点と思念しているのではないでしょうか。信心の時に正定聚となり、そのとき往生というゴール地点をめざしての歩みがはじまると見るのです。そしてそのゴールは「命終らんとする時」であるとするのですが、さてしかしそうしますと、親鸞が「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」と明言しているのをどう処理するのでしょう。往生というゴール地点が臨終の時であるとしますと、その時をこそ心待ちにし、その時に弥陀の来迎にあずかれるかどうかこそ最大関心事になると思いますが、親鸞は「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」と言う。これをどう咀嚼すればいいのでしょう。
 このことばはやはり往生について臨終の来迎をまつことはない、それは信心の時にはじまるのだと理解するしかないと思いますが、いや、信心の時には正定聚となるだけであって、往生はあくまで臨終の時を待つしかないと拘るのは、往生ということば、浄土ということばが醸し出すイメージに深く囚われていると言うしかありません。浄土へ往生するというからには、この娑婆世界とは空間的に隔てられた別の世界に往くのであり、したがってそれは「いま」ではない別の時に往くしかないと思い込むのです。親鸞にはそのような拘りはなく、正定聚となることが往生に他ならないと了解していますが、そのもとをたずねますと、曇鸞の往生観があると思われます。曇鸞にとって往生とは、アナザーワールドに生まれ変わるようなことではなく、それは「無生の生」(『論註』)に他なりません。

                (第5回 完)

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臨終まつことなし、来迎たのむことなし [『観無量寿経』精読(その66)]

(11)臨終まつことなし、来迎たのむことなし

 往生とは、「浄土に生まれる」ということですから、そのことばがもともと持っている語感からして、今生での命が終わってからのことであるのは当たり前であり、それ以外に考える余地がないように思えます。『観経』は最初から最後まで往生についてのこの常識的な立場に立って説かれており、『観経』に軸足を置く人たちはみな往生は命終わってからのことであるのは当然として議論を組み立ててきました。道綽しかり、善導しかり、源信しかり、法然またしかりです。
 ところが親鸞一人は違った。親鸞ははっきり、『観経』は方便の経(真実へと導くための方便として仮に説かれた経)であり、真実の教えは『大経』にありと宣言します。『教行信証』第一の巻「教巻」に「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」とありますが、これは言外に『観経』と『小経』は方便の経であると言っているのです。そのことを主題とするのは『教行信証』最後の「化身土巻」においてですが、全巻を通じてこの立場は貫かれています。そして真実と方便を分ける分水嶺が「他力の教えか自力の教えか」にあるのはもちろんですが、それはおのずから「往生は命終わってからか否か」とつながっています。
 この点についての親鸞の考えがこれ以上望めないほど明確に示されているのが『末燈鈔』第1通です。「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。…真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり」。真実の信心すなわち他力の信心を得た人は、そのとき摂取不捨され正定聚となるのであり、それはそのとき往生がはじまることに他なりません。「信心のひとは、そのこころすでにつねに浄土に居す」(同、第3通)のですから、「このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」です。
 しかし『観経』の立場から往生は命終わってからに決まっていると考える人は、これらのことばも別様に見えてくるようです。

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命終らんとする時 [『観無量寿経』精読(その65)]

(10)命終らんとする時

 「上品上生といふは、もし衆生ありて、かの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらかを三つとする。一つには至誠心、二つには深信、三つには回向発願心なり」という冒頭の一節にこだわってきましたが、それはここに『観経』の、ひいては浄土の教えの根幹があるからです。善導はそれを見抜いたからこそ、この三心は上品上生に限定されるものではなく、下品下生に至るまで、すべての往生人に通じると解しました。すなわち、善人であれ悪人であれ、往生を願うものはこの三心を具えていると見たのです。これが上品上生段以外の段には出てこないのは、ただ略されているだけであり、すべての段に共通していると解釈しました。
 この解釈は、至誠心・深心・回向発願心の三心は、われらにもともとあるのではなく、如来から回施されてはじめてわれらに具わるものであることを明らかにした親鸞の立場とつながります。もし三心が上品上生の往生人に限定されるのでしたら、それは往生人みずから具えなければならないものであるという見方が出てくるでしょうが、三心は下品下生の往生人にも具わっているとしますと、それはもはや往生人がみずから設えることができるはずはなく、如来から賜るしかないことは明らかです。下品下生の往生人とは「不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん」人ですから、そのような人に至誠心・深心・回向発願心をみずから設えることを期待することはできません。
 さて、上品上生の往生人とはどういう人かといいますと、それは「慈心にして殺さず、もろもろの戒行を具」し、「大乗方等経典を読誦」し、「六念を修行す」る人のことですが、この人は「この功徳を具すること、一日乃至七日してすなはち往生を得」と説かれています。ここに「すなはち」とありますが、これは「その場でただちに往生を得」ということではなく、往生はあくまで「命終らんとする時」であり、それは次の上品中生をはじめ、この後につづく九品すべてに共通しています。『観経』は往生を「命終らんとする時」に阿弥陀仏の来迎にあずかり「仏の後に随従して、弾指のあひだのごとくに」かの国に生まれることであるという立場を一貫して取っています。

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なんぢ一心正念にしてただちに来れ [『観無量寿経』精読(その64)]

(9)なんぢ一心正念にしてただちに来れ

 これまで「機の深信」を通してはじめて「法の深信」に至ると述べてきましたが、その具体的な姿がここに示されています。「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」と気づかされること(機の深信)が、どうして「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得」という気づき(法の深信)に至るのか、それがこの譬えでくっきりと見えてきます。
 かえるも死、止まるも死、行くも死というのは、どうにもたすかりようのない自分に目覚めること、すなわち「機の深信」ですが、この目覚めは自分のなかから起ることはありません。それは外からやってくるしかありませんが、「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん」という釈迦発遣の声と、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。われよくなんぢを護らん」という弥陀招喚の声がそれです。後ろから「行け」という声がし、前から「来れ」という声が聞こえてきて、もうこの道を行くしかたすかりようがない身であることにはっきり目覚めるのです。
 このように見てきますと、「機の深信」を通してはじめて「法の深信」に至るのは間違いありませんが(そして、このことによりドグマティズムを免れることができますが)、しかし同時に「法の深信」があるからこそ「機の深信」があることも了解できます。どうにもたすかりようのない身であるという気づきから、この道を行けば必ずたすかるという気づきに至るのですが、と同時に、「一心正念にしてただちに来れ」という弥陀招喚の声が聞こえてはじめて、どうにもたすかりようのない自分に目覚めるということもできます。かくして「機の深信」と「法の深信」はひとつであると言わなければなりません。
 たすかりようのない身であるという気づきと、弥陀の本願によって必ずたすかるという気づきはひとつであり、一方の気づきはつねに他方の気づきをともなっているのです。「機の深信」だけがあって「法の深信」がないということも、「法の深信」だけがあって「機の深信」がないということもありません。この二つは一体不離です。「煩悩即菩提」に大乗仏教のエッセンスがあると言われますが、煩悩の気づきが「機の深信」であり、菩提の気づきが「法の深信」ですから、「煩悩即菩提」とは「機の深信」即「法の深信」ということに他なりません。

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二河白道 [『観無量寿経』精読(その63)]

(8)二河白道

 至誠心、深心ときて、次は回向発願心ですが、善導の『観経疏』はここでもまた光り輝いています。「二河白道の譬え」です。
 水火の二河(貪欲・瞋恚の煩悩)に前方を阻まれた旅人はこう思念します、「われいま回(かえ)らばまた死せん、住(とど)まらばまた死せん、去(ゆ)かばまた死せん。一種として死を勉(まぬか)れざれば、われ寧(やす)くこの道(白道)を尋(たず)ねて前(さき)に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず度すべし」と。かえるも死、止まるも死、行くも死という三定死は、もはや自分では自分を如何ともしがたい、己が己を救うことは不可能であるという「機の深信」をあらわしていると見ることができます。そのとき「すでにこの道あり、かならず度すべし」という思いが起るのが回向発願心で、浄土に生まれたいと切に願う心です。
 ただ回向発願心ということばには細心の注意が必要です。このことばはどうしても「われら」が回向し、「われら」が発願するというニュアンスを帯びてしまうからです。善導は回向発願心について「かならず須らく決定真実心のうちに回向し願じて」とそのニュアンスで注釈していますが、親鸞はここでもこの文を「かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須(もち)ゐて」と独自の読みをします。回向するのも発願するのも「われら」ではなく「如来」であると読むのです。浄土に生まれたいと切に願うのは「われら」に違いありませんが、「われら」が往生を願うことができるのも、その前に「如来」がわれらの往生を願ってくれているからであると理解するのです。
 それが善導にとっても正しい読みであることは、二河白道の譬えのなかで、東の岸から「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん」という釈迦の声が、そして西の岸から「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。われよくなんぢを護らん」という弥陀の声が旅人に聞こえるとあることから了解できます。旅人が「すでにこの道あり、かならず度すべし」と思えるのは、釈迦の「行け」という発遣の声と弥陀の「来れ」という招喚の声が聞こえているからこそのことです。

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「機の深信」を通して「法の深信」に [『観無量寿経』精読(その62)]

(7)「機の深信」を通して「法の深信」に

 自分が何ものであるかは自分で知ることができず、外から知らしめられるということは、「わたしのいのち」にはその外部があるということに他なりません。
 われらは「わたしのいのち」ですべてが完結していると思い込んでいますが(デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」はそういう意味です)、それはまさに「わたしのいのち」に囚われているのであって、ちょうど夢を見ている人にとって夢の世界が唯一の現実であり、その外に覚醒の世界があるなどと思いもしないのと同じことです。しかし、あるとき「わたしのいのち」には外部があることに気づかされます、ちょうど夢から覚めた人が、夢の世界が唯一の世界ではなく、その外に眩いばかりの世界があると気づかされるように。
 「わたしのいのち」の外部が「ほとけのいのち」に他なりません。「わたしのいのち」は「ミタ(有量)のいのち」ですから、その外部は「アミタ(無量)のいのち」であり、また「わたしのいのち」は「みなもつてそらごとたはごとのいのち」ですから、その外部は「みなもつてまことのいのち」であり、その「アミタのいのち」を「ほとけのいのち」と呼んでいるのです。
 さて「わたしのいのち」の外部に「ほとけのいのち」があると言っても、この二つが別々に、たとえば地球と太陽のようにあるのではありません。「ほとけのいのち」は「アミタのいのち」ですから、それが「ミタのいのち」である「わたしのいのち」と別々であることはなく(もしそうなら、それはもう「アミタのいのち」ではありません)、「ほとけのいのち」は「わたしのいのち」をその内に包みこむしかありません。それは覚醒の世界が夢の世界をその内に包みこんでいるのと同じです。
 「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」と気づかされたとき、同時に、そのような「わたしのいのち」には外部があると気づかされています。その気づきが「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得」に他なりません。このように、「機の深信」(自己)を通して「法の深信」(本願)に至るのです。ここにはいかなる形而上学も教条主義もありません。

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パラドクス [『観無量寿経』精読(その61)]

(6)パラドクス

 あるとき講座で、『歎異抄』のことばとして「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」を紹介し、ここに親鸞浄土教の核心があるという話をしておりましたら、ある方が突然手を挙げられ、こう言われました。「親鸞がすべてはそらごとたわごとだと言ったとしますと、親鸞がそう言っていることもそらごとたわごとということにはなりませんか」と。まことにおっしゃる通りで、ここには「嘘つきのパラドクス」として知られている逆説があります。誰かが「ぼくは嘘つきです」と言ったとしますと、彼がそう言っていることも嘘であることになり、何が何やら分からなくなります。
 では「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと」という言明はナンセンスということになるのでしょうか。とんでもありません、ここに親鸞浄土教の、ひいては仏教の核心があります。聖徳太子のことばとされる「世間虚仮、唯仏是真」は仏教の本質をついています。とするとどういうことか。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」を煩悩具足の凡夫がみずから知ることはできないということです。それをみずから知ったと言った途端に、先ほどのパラドクスが炸裂します。ですから、親鸞はこのことをみずからゲットしたのではありません、このことに親鸞がゲットされたのです。
 親鸞にどこかから「煩悩具足の汝は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」という声が聞こえてきて、親鸞はその声に「まことにその通りです」と頷き、うな垂れているのです。「自分は何ものか」は自分では知ることができず、外から否応なく気づかされるということ、ここに他力の原義があります。哲学者の鷲田清一氏がどこかで言っていました、自分がどんな顔をしているかですら、自分で知ることはできないと。鏡に映して自分の顔を見る時、必ず自分の気に入る角度から見ていて、どこかで脚色しているというのです。嘘偽りのない自分の顔は、誰かが知らないうちに撮った写真に示されており、「えっ、これがオレか」とガッカリさせられるのです。

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信心の二つの面 [『観無量寿経』精読(その60)]

(5)信心の二つの面

 さてここでじっくり考えたいのは信心に二つの面があるということです。
 浄土教の信心とは何ですかと問われたら、「阿弥陀仏の本願は一切衆生を漏れなく救ってくださる(往生させてくださる)と信じることです」と答えるのが普通で、これは先の善導のことばの後半、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず」に当たります。ところが善導は、それは信心の一面にすぎず、もうひとつの面を忘れていると言います。それが前半の「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」であり、これがあってはじめて、後半の「かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず」があるのだと言うのです。
 信には「己についての信」と「仏(本願)についての信」の二面があるということで、前者を「機の深信」、後者を「法の深信」とよびます。
 これは何を意味するでしょう。ちょっと目先を変えて道元の有名なことばを参照したいと思います。「仏道をならふといふは、自己をならふなり」(『正法眼蔵』「現成公案」)。仏とは何かを知ることは、自己とは何ものかを知ることに他ならないということで、もうひとつ言えば、自己を知ることを通してしか仏を知ることはできないということです。「自己を知る」と言っても、禅の教えと浄土の教えではかなりニュアンスが異なるでしょうが、いずれにしても自己とは何かをよそにして、仏とは何かを追究しようとしても無効であるということです。それをやろうとしますと形而上学になってしまい、教条主義(ドグマティズム)になってしまいます。
 「機の深信」があってはじめて「法の深信」があるということは、自己を通じてしか仏(本願)に遇うことはできないということです。
 さて、浄土教において「自己とは何ものか」に対する答えは「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」であり、あるいは「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」ですが、問題はわれらはこれをどのようにして知ることができるかということです。

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自身は現にこれ罪悪生死の凡夫 [『観無量寿経』精読(その59)]

(4)自身は現にこれ罪悪生死の凡夫

 「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」についても同じように言えます。これも「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」と読むのが自然ですが、しかしそう読みますと、われらには確かに虚仮の心があるが、真実心もあるのだから、内に虚仮の心を懐かないよう心掛けなければならないという意味になります。しかし親鸞としては、われらに真実心があるはずはないのだから、外に向かっていかにも賢善精進であるかのような顔をするな、ということになります。汝自身を知れ、という厳しい指摘です。
 さあしかしこれは、見ようによっては、親鸞は他人の文章を自分勝手に読みかえていると言うこともできます。著者の意図をそっちのけに、自分の読みたいように読んでいるだけではないかと。
 そこで親鸞の気持ちを代弁しますと、ほんとうは善導自身が言いたいことなのだが、残念ながら言い尽せていないことを、自分が代わって言っているのだということではないでしょうか。それは次の深心釈をみることでより明らかになります。善導は深心とは深い信心であり、それに二種あるとしてこう言います、「一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず」と。
 これは善鸞浄土教の金字塔とも言うべきで、これだけでも善導は永遠に輝いていますが、この善導の立場からすれば、至誠心についても親鸞のように読むのが、善導にとってその真意をついていると言えるのではないでしょうか。善導はまず「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」であると言いますが、これは言い換えれば「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」ということでしょう。としますと善導としても「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」という読みはないと言わなければなりません。

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