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坊主と門徒 [「『おふみ』を読む」その6]

(6)坊主と門徒

いよいよ1・1の本文に入りましょう。この「おふみ」のテーマは「坊主と門徒」です。

前に仏光寺派の名帳〈みょうちょう〉・絵系図〈えけいず〉に触れましたが、「坊主と門徒」の関係を考える上でこれは恰好の材料となります。名帳といいますのは、ひとつの道場の主=坊主が、自分のもとに帰属する信徒の名を記した帳面のことですが、ただの名簿という位置づけではなく、そこに名前が記載されることで極楽往生が保証されるという意味あいが出てくるのです。仏光寺派は了源が事実上の祖ですが、この人は高田門徒の流れをくみ、親鸞を開祖、第2世を真仏として、自分を第7世に位置付けます。で、仏光寺派の坊主たちは、了源の門流にあることで己の正当性を主張し、その名帳に記載されることが極楽往生の保証であると言うのです。さらに絵系図はこの師資相承の系譜を絵図にあらわし、その正当性を視覚的に確認しようとします。

名帳・絵系図のもつ意味は明らかです。坊主が門徒の極楽往生を保証するという構図、これです。門徒からしますと、名帳に載せられることで往生一定の安心が得られますし、坊主からしますと、名帳に載せる権限を握ることにより門徒を己のもとに掌握し、ひいてはお布施をしっかり確保することができます。これがいかに本来の他力信心の姿から遠いかは多言を要しないでしょう。ルターの宗教改革を思い起こさせます。ルターはローマカトリック教会による免罪符の販売を機に教会改革ののろしを上げたのでした。カトリック教会が発行する免罪符を購入することにより天国への切符が手に入るというのは、あまりにも信仰を歪曲するものではないか、と。

さて、この「おふみ」は冒頭に、ある道場主の疑問をあげます、自分のもとに集う門徒を「わが弟子とこころえおくべく候やらん、如来・聖人の御弟子ともうすべく候やらん」と。そしてそれに蓮如は次のように答えるのです。


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5帖おふみ [「『おふみ』を読む」その5]

(5)5帖おふみ

最初の「おふみ」とされるのが、寛正2年(1461)に金森〈かねがもり、滋賀県守山市〉の道西(どうさい)に下されたものです。蓮如47歳のときで、それから84歳まで書き続けたものをすべて集計しますと252通にも上ると言われます(数え方で数字はゆれます)。蓮如の子である第9代法主・実如がそれらのなかから80通を選び、5帖にまとめたとされます(『5帖おふみ』)。第1帖から第4帖までの58通は、年代別に早い順に並べられ、第5帖22通は、いつ書かれたか記されていない比較的短いものが集められています。この第5帖は真宗の教えを簡潔に述べたものとしておそらく最初に編集されたと考えられ、これだけを別に出版することもあったようです。

さて書かれた年代の分かるもの(第1~4帖)を、時代順に整理してみましょう。

  吉崎時代 1・1から3・10まで40通

  出口時代 3・11から4・4まで7通

  山科時代 4.5から4・9まで5通

  大坂時代 4.10から4.15まで6通

吉崎時代が他を圧倒しています。蓮如が吉崎に滞在したのはたったの4年にすぎませんが、この4年がいかに疾風怒濤の時代であったかがうかがえます。2・13は文明6年7月3日、2・14は7月5日、2・15は7月9日、3・1は7月14日といった具合で、矢継ぎ早に出されていることが分かります。おびただしい数の人たちが吉崎に押し寄せてきて、それだけ教化が進んだということですが、それは同時に、さまざまな問題が露呈してくるということでもあります。それに対応すべく蓮如は獅子奮迅の働きを見せなければなりませんでした。


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おふみ [「『おふみ』を読む」その4]

(4)おふみ

さてようやく「おふみ」です。蓮如が本願寺の勢力を急速に伸ばすことに成功する上で最大の力を発揮したのはこの「おふみ」でしょう。親鸞が京に戻ったのちに、関東の弟子たちに宛てて書いた書簡がその範型になっているのは間違いありません。蓮如は若いころ親鸞の書簡集『末燈鈔(まっとうしょう)』を書写し、その最後のところに「およそこの御消息は念仏成仏の咽喉(いんこう)にして、愚痴愚迷(ぐちぐまい)の眼目なり」と記しています。

親鸞の書簡には、末尾に「乗信坊にかやうにまふしさふらふやうを、ひとびとにもまふされ候べし」(『末燈鈔』第6通)とか、「このふみをもて、ひとびとにもみまいらせたまふべく候」(同第9通)というように、みんなで共有してくださいと添え書きしてあることが多いのですが、蓮如はここから大事なことを汲み取ったに違いありません。この形式は布教のツールとしてきわめて有効であるということです。

親鸞の書簡はそのほとんどが弟子たちからさまざまな疑問が寄せられたのに対する返信です。親鸞が京に戻ってしまったがために、胸に萌した不審を質すには、面倒でも手紙をしたためるしかありません。弟子たちのそうした疑問に親鸞は丁寧に答えているのです。ですから、他のみなさんにもお伝えくださいというのは、同じような疑問をみな持っているに違いないと思うからでしょう。

それに対して、蓮如の「おふみ」は最初から明確な目的意識のもとに書かれていると言えます。当流、すなわち浄土真宗の正しい信心を、間違いなく、しかも効率的に多くの門徒に届けるために、これに勝る方法はないという信念のもとに、蓮如のイニシャティブで書き送られています。この第1帖第1通(これから手間をはぶくために、1・1と表記します)の出だしを見ますと、親鸞の場合と同じように、ある人から疑問が寄せられ、それに答えているような感じですが、そのような体裁をとっているだけで、蓮如自身が問題と思っていることをテーマとして取り上げて書いているのは間違いないでしょう。


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蓮如の生涯 [「『おふみ』を読む」その3]

(3)蓮如の生涯

ここで蓮如の生涯を簡単に見ておきましょう(笠原一男『蓮如』より)。

応永22年(1415)  1歳 東山大谷に生まれる

 応永27年(1420)  6歳 生母、本願寺から去る

 永享 3年(1431) 17歳 青蓮院にて剃髪

                このころから各地に土一揆

 文安 4年(1447) 33歳 東国布教の旅にでる

 長禄 元年(1457) 43歳 父・存如死す、第8代法主となる

 寛正 6年(1465) 51歳 大谷廟堂破壊さる(寛正の法難)

                近江の堅田衆、金森衆などの力で盛り返しを図る

 文明 3年(1471) 57歳 吉崎に赴く

                このころから「おふみ」を精力的に制作、北陸の教化が急速に進む

 文明 7年(1475) 61歳 吉崎を去る

                河内の国・出口を拠点に、畿内・東海を教化

 文明10年(1478) 64歳 山科に本願寺を定む

 長享 2年(1488) 74歳 加賀一向一揆、富樫正親を敗死せしむ

 延徳 元年(1489) 75歳 山科本願寺に隠居

 明応 5年(1496) 82歳 大坂御坊起工

 明応 8年(1499) 85歳 山科本願寺で死す

これを見るだけでも、蓮如の生涯は本願寺の興隆にささげられたことがよく分かります。彼は覚如の意思を受け継ぎ、本願寺を親鸞にはじまる浄土真宗の本流として組織しようとして、それを一代でやってのけたのです。因みに彼がいかに精力的であるかは、生涯に5人の妻を迎え(いずれも死別したのちに新しい妻を迎えています)、13男14女、計27人の子をもったことからも分かります(第27子は蓮如の死の前年、何と、おんとし84歳のときの子です)。


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親鸞、覚如、蓮如 [「『おふみ』を読む」その2]

(2)親鸞、覚如、蓮如

蓮如は浄土真宗中興の祖と言われますが、実質的な創始者と言う方が実状にあっているのではないでしょうか。

親鸞その人には、自分が中心となって新しい宗派を作ろうという発想そのものがなかったと言えます。彼としてはあくまで「よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(『歎異抄』第2章)で、法然聖人の教えが世のなかに広まれという願いはあっても、自分が法然教団の後継者となるとか、あるいは新たな教団を創設しようなどとは思いもよらないことでしょう。

覚如(親鸞のひ孫、親鸞の末娘・覚信尼→その息子・(かく)()→その息子・覚如)の代になり、関東の直弟子(親鸞面の弟子)たちとの対抗意識のなかで、親鸞の血を引き、親鸞の墓所を守る自分が中心となって、親鸞教団としての浄土真宗を作らなければならないという明確な目的意識が生まれてきたと思われます。覚如の書くものを見ますと、その思いが色濃く漂っていることに気づきます。とりわけ『親鸞聖人伝絵(でんね)』という親鸞の伝記は、浄土真宗開祖としての親鸞を顕彰しようという目的意識が明らかです。

かくして新宗派としての浄土真宗は産声を上げたと言えますが、順調に育つというわけにはいきませんでした。親鸞の教えを汲む流れとしては、むしろ関東の面授の弟子たちを核とする門徒集団(高田門徒、横曽根門徒、鹿島門徒など)の方が、親鸞直伝という強みを生かしてより力強い歩みをしていたと言えます。とりわけ高田門徒から派生してきた仏光寺派が、名帳(みょうちょう)・絵系図(えけいず)という怪しげな手法を用いることで急速に勢力を伸ばし、訪れるものもなく「さびさびと」していた本願寺とは好対照でした。

そこに登場するのが蓮如です。覚如から善如、綽如(しゃくにょ)、巧如(ごうにょ)、存如(ぞんにょ)と続き、存如の長男として生まれた蓮如が本願寺第8代法主を継ぐこととなります。土一揆の嵐のなかで室町政権が崩れていき、応仁の乱から戦国の世に移り変わっていく時代です。


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第1通第1段 [「『おふみ』を読む」その1]

第1回 はじめに―第1帖第1通


(1)第1通第1段


(ある)(ひと)いわく、当流のこころは、門徒をばかならずわが弟子とこころえおくべく候やらん、如来・聖人の御弟子ともうすべく候やらん、その分別を存知(ぞんじ)せず候。また在々(ざいざい)所々(しょしょ)に小門徒をもちて候をも、このあいだは()(つぎ)の坊主には、あいかくしおき候ふやうに、心中(しんちゅう)をもちて候。これもしかるべくもなきよし、人のされ候だ、おなじくこれも不審(ふしん)千万(せんばん)に候。御ねんごろにうけたまわりたく候


(現代語訳) ある人からこんな質問がありました。わが浄土真宗では、門徒を自分の弟子と考えるべきでしょうか、それとも如来や親鸞聖人の弟子というべきでしょうか。そこがよく分かりません。また、ところどころの道場に小人数の門徒がいますが、いまのところ手次の寺の坊主には内緒にしておこうと思っています。ところが、これもよくないと言う人がいます。これまた疑問に思っていることですので、お伺いしたいと思います、と。


 みなさん、こんにちは。これから蓮如の『おふみ』(西本願寺では『御文章』といわれます)を読んでいきたいと思います。浄土真宗の開祖は言うまでもなく親鸞ですが、しかし親鸞という人をこれほどまでに世に知らしめたのは他ならぬ本願寺第八代・蓮如と言うべきでしょう。ぼくらは蓮如によって親鸞を知ることができたと言わなければなりません。いまでこそ親鸞は鎌倉新仏教の中心人物として教科書にも載り、その名を知らない人はいないと言えますが、それももとをたどれば、蓮如によって浄土真宗の教線がものすごい勢いで広げられたからです。そして、蓮如の手で親鸞の『正信偈』と『三帖和讃』が開版されることで、それが日々のお勤めで読まれるようになり、全国津々浦々の真宗寺院で、あるいは各門徒の仏壇で、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」(『正信偈』)という声、そして「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり 法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり」(『浄土和讃』)の声が聞かれるようになったのです。



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孫悟空 [「『証巻』を読む」その121]

(8)孫悟空

しかし「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であり、「わたしのはからい」はみな「ほとけのはからい」の掌の上にあることに気づいたとき、それで「わたしのはからい」が消えるわけではありませんが(われらはいのちある限り「わたしのいのち」を「わたしのはからい」で生きるしかありません)、それは取りも直さず「ほとけのはからいの掌の上のことですから、そう思えることで「わたしのはからい」の色は次第に薄くなっていきます。そして「ほとけのはからい」に生かされていることに慶びを感じることがいよいよ濃くなっていきます。

これを思うとき、いつもぼくの頭に浮ぶのはあの孫悟空です。「わたしのはからい」の力に驕り高ぶる孫悟空に、お釈迦さまが「おまえは世界の果てまで行ってくることができるか」と尋ねられると、孫悟空は「へん、お安い御用」とばかり、筋斗雲に乗って世界の果てを目指します。そして巨大な五本の岩の柱のところまで行きつき、ここが世界の果てに違いないと、その岩に小便をひっかけて、また戻ってきたところ、何と自分はお釈迦さまの掌の上にいて、お釈迦さまの指には小便のあとが、というあのお話です。われらは何ごとも「わたしのはからい」でしていると思っているが、それはみな「ほとけのはからい」の掌の上でのことであることを何とも印象的に教えてくれます。

「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」心はたしかに「わたし」におこりますが、しかし決して「わたし」がおこしているのではなく、そこには「ほとけのはからい」があり、そのはからいにもよおされて「わたし」におこるということです。「宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義(じんぎ)を弘宣(ぐせん)したまへり」とはそういうことです。少し前のところで、還相のはたらきとは、娑婆を浄土にしていくことではないかという考えを取り上げましたが(4)、その考えのベースには、何ごとも「わたしのはからい」によるという思いがあるのではないでしょうか。それは他利と利他を混同していると言わざるを得ません。

(第12回 完)


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みな本願力より [「『証巻』を読む」その120]

(7)みな本願力より

先の本文1で、「みな本願力より起る」ことを説明するのに、「たとへば阿修羅の琴(きん)の鼓(こ)するものなしといへども、しかも音曲(おんぎょく)自然なるがごとし」という印象的な譬えがつかわれていました。それは、還相の菩薩に衆生を済度しようなどという意識はないのに、「自然に」済度のはたらきがされるということであり、それが「みな本願力より起る」ということです。他利と利他の違いは外からは見えません。周りの人には還相の菩薩が「みづから」衆生利益のはたらきをしているように見えても、本人としてはそんな思いは露ほどもありません。にもかかわらず「おのずから」衆生利益のはたらきが起こる。それが「阿修羅の琴の鼓するものなしといへども、しかも音曲自然なるがごとし」ということです。

ぼくは『歎異抄』の第4章がなかなか了解できませんでした。「今生に、いかにいとほし不便(ふびん)とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべき」ということばが咽喉の奥に引っかかったまま、ストンと腹に落ちてくれません。これでは他の人のためにはたらくことは今生ではできず、来生を期すしかないということになり、これまで『論註』から読み取ってきたもっとも大事な教えに反するのではないかと思えます。その肝心の教えといいますのは、往相(自利)がそのまま還相(利他)であるということ、曇鸞のことばでは「願作仏心これすなはち度衆生心」ということです。

では『歎異抄』のことばは何を言わんとしているのでしょう。ことは「わたしのはからい」と「ほとけのはからい」の関係にかかわります。

「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であるということ、これが他力思想の原点ですが、それは取りも直さず「わたしのはからい」はすべて「ほとけのはからい」の掌の上ということです。しかし「ほとけのいのち」の気づきがありませんと、もちろん「ほとけのはからい」もなく、ひたすら「わたしのはからい」しかありません。ですから「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」ことも、みな「わたしのはからい」にかかっており、その結果として「おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし」ということになります。「わたしのはからい」などたかが知れているからです。


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他利利他の深義(じんぎ) [「『証巻』を読む」その119]

(6)他利利他の深義(じんぎ)

曇鸞はその問いにこう答えます、天親は「五門の行を修してもつて自利利他成就したまへるがゆゑに」と述べているが、「しかるに覈(まこと)に其の本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁(ぞうじょうえん)とするなり」と。つまりこういうことです、菩薩がみずから五念門を修め自利利他の行を成就して証果を得るように見えて、実はそこには阿弥陀如来の本願力がはたらいているのであり、だからこそ速やかに証果に至ることができるのだと。天親自身はそのことをはっきりとは言っていないが、天親の真意はそこにあると曇鸞は指摘し、そしてそのことを示すために「他利利他の深義(じんぎ)」を持ち出すのです。

天親が「菩薩は自利利他して」と言っていることに着目して曇鸞はこう言います、「他利と利他と、談ずるに左右(そう)あり(他利と利他には左手と右手のような違いがあります)」と。ではどう違うかというと、「もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし」と言います。利他すなわち「他を利する」ということばは如来にこそふさわしく、われら衆生からすれば他利すなわち「他(すなわち如来)が利する」としか言えないということです。われらが衆生利益をはたらくといっても、それは如来が衆生のためにはたらいてくださっているのであり、したがってそれは利他ではなく他利としか言えないということです。

で、曇鸞はこういいます、ここで「自利利他して」と言われていることからすれば、これは「仏力を談ぜんと」しているに違いないと。文の表面からすれば、菩薩が自利利他のはたらきをしているように見えるが、実のところは(「覈(まこと)に其の本を求むれば」)如来の本願力のはたらきのことを言っているのだということです。そこからこう結論します、「おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の起すところの諸行は、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑに」と。往相も還相もすべて「阿弥陀如来の本願力による」のであるというのです。


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第12回、本文2 [「『証巻』を読む」その118]

(5)第12回、本文2

「証巻」最後の締めのことばです。

しかれば、大聖(だいしょう)(釈尊)の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。還相の利益は利他の正意を(あらわ)すなり。ここをもつて論主(天親)は広大無礙の一心を宣布(せんぷ)して、あまねく(ぞう)(ぜん)堪忍(かんにん)(雑染はさまざまな煩悩、堪忍は娑婆)の群萠(ぐんもう)(かい)()す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の(じん)()弘宣(ぐせん)したまへり。仰いで奉持(ぶじ)すべし、ことに頂戴(ちょうだい)すべしと。

最初の文は「証巻」前半のまとめで、「大聖の真言」とは巻のはじめに上げられた『大経』と『如来会』の文を指しています。すなわち本願を信じ念仏を申して大涅槃を証することは本願力の回向によるということです。第二の文は「証巻」後半の還相回向のまとめで、往相と同じく還相もまた如来の利他すなわち本願力のたまものであることを述べています。そしてすべては本願力によることを明かしてくれたのが、天親の「一心」すなわち「如来回向の信心」の教えであり、また曇鸞の「大悲往還の回向」の教えであると述べています。さらに最後の最後に曇鸞の「他利利他の深義」を指摘して巻を閉じるのですが、このことについては何の説明もありません。

『論註』下巻からの長い引用は先の本文1までで、その後の最末尾の部分はここでは引かれていません(すでに「行巻」で引かれています)。実はその部分が『論註』のクライマックスとも言うべき箇所になります。そこで曇鸞は『浄土論』の終わりの文、「菩薩はかくのごとく五念門の行を修して自利利他す。速やかに阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏のさとり)を成就することを得るがゆゑなり」を注釈していて、その中に「他利利他の深義」が出てくるのです。曇鸞はまず問いを出します、「なんの因縁ありてか、〈速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得〉といへる」と。菩薩が五念門の行を修めたからといって、どうして速やかに仏のさとりを得ることができると言えるのか、ということです。


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